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「屋久島の縄文杉に逢いに行きたい」と思った。本書を読んだとき私は、ある一冊に人生を変えられるほど心が揺さぶられる経験をするというのは、おそらくこういうことなのだろうとわかった。今年の7月の出来事だった。
3年前の私がもし、「木といえば」なんて質問をされたら、おそらく最初に思い浮かべる言葉は「植林活動」であっただろう。木を植えることで地球温暖化や砂漠化を防止することができる、というのは、今や誰もが知っている話だと思う。私は住んでいる町で定期的に開かれる植林活動へ参加していたこともあり、自身にとって木は身近な存在だった。しかし、なぜだろうか。何度木の苗を植えても、成長した木を見ても、そこに木への親しみや愛情はちっとも湧かなかったのだ。あの頃の私にとって木は、「人間の責任を押し付けられた植物」、そんな存在だった。木は確かに私の目の前で生きているはずなのに、なぜか生きている気がしない。振り向くと、植林活動に参加している人が次々と帰っていくのが見えた。誰も、木のことなんて見ていなかった。
そんな昔の思い出が、屋久島の杉に囲まれているときにふっと蘇ってきた。私の目の前には、樹齢7000年を超えるとも言われる巨大な縄文杉があった。紛れもない「生きている木」であった。昔は木を見てもなんの感情も湧かなかったのに、今の私は、こうして自分の住む場所から500㌔以上離れた場所にある、屋久島にまで木を見に来ている。しかも今度は、木が生きていると感じられる。やはり本書が、私を変えたのだとわかった。作者である幸田文が私に、「木に逢う」という言葉を教えてくれたのだ。
彼女はヒノキやエゾ松、屋久杉など、たくさんの木と出会ったときの感情を本書に綴っている。彼女は木を見に行くと言われては大喜びになってしまう、そんな人だったそうだ。その感性にも私は驚かされたが、私が何よりも驚いたのは彼女の眼だった。彼女の眼は、本当に優しかった。私たちは、木なんてものはそこら中に生えているし、そこにあるのが当たり前だと思っている。道端にぽつんと立っている一本の木に、価値なんてないとも思っている。けれど、彼女は違っていた。彼女は木に対して本書でこう語っている。「蕾が花に、芽が葉になろうとするとき、彼らは決して手早く咲き、また伸びようとはしない。花はきしむようにしてほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。用心深いとも、懸命な努力ともとれる、その手間取りである。」と。私は、「木が努力をしている」なんて考え方をしたことがなかった。この文章を読んだとき、なぜ、植林活動によって植えられた木が生きていないように感じたのかがはっきりとわかった。私は本当の木の姿を見ることができていなかったのだ。木は私たちと共に生き、見守るべきものであるのに、いつしか植えておしまいになっていることに、あの日気づいたのだ。
木は、自分が花を開くべき季節まで懸命に枝をのばし、今日も絶え間なく成長し続けている。その時がくれば、必ず花を咲かせる。私たちは、どうだろうか。生き急いだり、近道がないかを探したりと、長い間努力をすることを怠ってはいないだろうか。私もこの本に出会うまでは、自分の人生がどれだけ速さというものを意識していたか気づいていなかった。人との差が開かないように、人に置いていかれないようにと、近道を探すことに必死になっていた。だが木は違う。木の枝には節目があり、そこからは新しい芽が生えてくる。花が咲くまで、陽の光に向かって枝を伸ばし葉をつける。彼らは私たちよりもずっと、時間というものを大切にしていた。私たちは、毎日ちょっとずつ、けれど確実に成長していく木の姿を見守り、自分自身をどう生かすかを考えなければならない。生きている木とは、今もこれからも、人から見守られていくだろうという希望をもっている木なのだと感じた。
また幸田文は、山の木よりも町の木のほうが優しいのだ、と綴っていた。木は何十年、何百年も前からずっと、人と共に生きている。しかし、一人の人間の一生なんて、木にとってはほんの少しの時間にすぎない。だからこそ、私たちは木を見つめる必要があるのだ。「樹木を愛でるは心の養い、何よりの財産」。木は動物のように動くことも、我々のように話すこともできず、ただそこに立っているだけかもしれない。しかし、どの木にも必ず物語がある。木から学び、木を愛おしむことを知らなければならないと、この本は私たちに教えてくれているのだ。
そういえば最近、微かに夏の終わりを感じる風が吹いてくる。今年の秋の木々たちは、一体どんな努力をして、私たちにどんな表情を見せてくれるのだろうか。新しい木の季節が来るのは、もうすぐである。
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●読んだ本「木」(新潮社)
幸田文・著
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