第69回中学校の部 最優秀作品

「「好き」と向き合う」
 山口市立阿知須中 3年 倉重圭宏

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 いつもなら、近づいてくる夏休みの解放感にうきうきする一学期末だが、今年は違った。心に何か重りのようなものがあって、何をしていても手放しで楽しめない中学三年生の夏。それだけに力を注いできたと言ってもいい部活動も引退を迎え、高等学校の体験入学に参加してみるものの、心が追いつかない自分がいた。

 そんなとき、図書館にあった一冊の本を手に取ったことで、僕は愛すべき「博士」と出会い、今の自分と向き合う時間を得た。

 博士は六十四歳の数論専門の元大学教師だ。十七年前の交通事故で記憶する能力が失われ、一九七五年で記憶の蓄積が終わっている。博士の記憶は八十分しかもたない。そんな博士と家政婦の「私」、その十歳の息子ルートの三人が過ごした、数の世界に彩られた日々、静かで優しく濃い時間が描かれている。

 もともと読書家ではない僕が、登場人物をこんなに近くに感じたのは初めてだった。双子素数や虚数、0の存在や江夏の話が繰り広げられる博士の家の書斎や食卓に、あたかも自分もいるような不思議な感覚に陥った。博士の数学の世界に対する愛着や慎み深さ、「私」とルートの素直で純粋な好奇心に共感し、気づけば心地よい数の世界に浸っていた。

 僕は、博士のように素数を心から愛し、虜にされたことはないが、数式を見て、「この式は、一見、表しようのないようなことさえも表せてしまうのか。」と、かっこよさを感じることがある。また、すっきりと整理された形に美しさを感じることもある。少し前から、テレビで放送されている数学番組を録画し、何度も繰り返し見ていて、家族に「また見ているの?」とあきれられることもしょっちゅうだ。この小説の中でも登場する「フェルマーの最終定理」や「オイラーの公式」は、その数学番組で知った。数学の世界は難解だが、奥深くてわくわくする。苦労の末に、広大な数学の森から真理を見つけ出した数学者たちを心から尊敬する。テストでは思うように点が伸びず、落ちこむこともあるけれど、やっぱり僕は数学が好きだ。

 電子レンジのスイッチさえ、自信がなくて自分で押せず、散髪屋や歯医者では不安で落ち着きをなくしてしまう博士だが、数字について語ったり、「私」やルートに数学の問題を教えたりするときには、実に楽しそうで生き生きとした姿であることが、僕にはうれしかった。「好き」に支えられた探究心や好奇心が、いくつになっても自分らしく生きる原動力になっているのだと、改めて感じた。博士から数学をとってしまうと、きっと博士ではなくなってしまう。「好き」のもつ力の偉大さを知るとともに、自分の「好き」を大切にしたいと思えた。

 そして、恐らく博士にとって初めてできた友達であろう、「私」とルートもまた、孤独な博士の生活に彩りを与える存在だった。八十分しか記憶がもたない博士との交流は、時に戸惑いや失敗をもたらしながらも、温かく穏やかな時間を紡いでいく。三人とも、互いの存在をありのままに受け入れようとするとともに、相手を喜ばせたい、安心させたい、守りたいという愛情に満ちていた。年齢もバラバラの三人だが、そこには友情と言えるものが確かに存在していた。博士の言葉で言うところの「神の計らいを受けた絆で結ばれ合った」友愛数のような関係。「好き」なことがあること、そしてそれを語り合って共有し、喜び合える仲間がいることがどんなに幸せなことか。毎朝、上着の一番目立つ場所に留められたメモ《僕の記憶は八十分しかもたない》を一人、ベッドの上で読み、打ちひしがれている博士にとって、「私」とルートは、たとえ翌日には忘れていても、数の世界を通じて何度でも友情を育める永遠の仲間だった。

 人生で初めての岐路に立っている僕が、このタイミングで博士に出会えたことは、もしかしたら運命なのかもしれない。

 博士が数の世界に魅せられたように、僕も、数学や化学の世界に興味がある。小学校の理科室に貼ってあった元素の周期表を何度も見て、世界のすべては元素でできていることに驚いた。理科の授業で化学反応式を習ったが、さまざまな現象を式で表せることに感動し、きちんと理屈があって成り立っていることに納得した。実験のときはわくわくするし、その後で考察するのもおもしろさを感じる。どうしてそうなったのか、予想通りになったときも、ならなかったときも、自分のこれまで身に付けた力を寄せ集めて考えることが好きだ。「学力を考えて、進路を決めなくては……。」と、気持ちばかりが焦っていたが、自分の「好き」と改めて向き合えた時間は貴重だった。

 博士の数との触れ合いは、彼が亡くなるまで続いた。中学三年生の僕も、今の「好き」を原点に、もっと深く学んでいきたい。一度しかない人生を、自分らしく生きるために。

 

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●読んだ本「博士の愛した数式」(新潮社)
小川洋子・著

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