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中三の夏は、苦しい。進路に悩み悶(もだ)え、苦手な数学の難問に脳を抉(えぐ)られる。倦(う)まず弛(たゆ)まず日進月歩している実感と裏腹に、上には際限なく上がいる現実に、心が折れかける。偏差値と思い描く将来を天秤(てんびん)にかけ、眼前に霧がかかったような息の詰まる熱帯夜に、リビングから聞こえた録画番組の姜尚中さんの一言が、私を一冊の本との再会に導いてくれた。「悩んだ時期にフランクルを読んだことが、後の自分のバックボーンになったのです」
私が「夜と霧」を開くのは、実は三度目だ。出逢いは、小五の夏。当時没頭した「アンネの日記」の隣に展示されていた初版を開いた瞬間、痩せ細ったユダヤ人被収容者の死体の写真に衝撃を覚え、ただただ恐ろしくて、向き合う余裕を失った。二度目は、中一の夏。広島の原爆体験を綴(つづ)った本の読後に世界の体験を多角的に見つめたいと感じ、新版を読破したが、ナチスの残虐な非道の描写に慟哭(どうこく)するばかりで本書の真髄には到達できなかった。そして、この夏。幼かった心が消化しきれなかった記憶が蘇(よみがえ)り、駆り立てられるように、私はフランクルの言葉を胸に刻んだ。
「夜と霧」は、オーストリア人の精神科医、ヴィクトール・E・フランクルによる、約三年間のユダヤ人強制収容所での経験の記録である。家畜用の貨車に詰め込まれ、糞尿(ふんにょう)にまみれてアウシュビッツに移送されたり、絞首刑になった複数の被収容者の死体がクリスマスツリーの飾りとして吊(つ)るされる環境で、殺害、餓死、病死の恐怖を前に人生に絶望する人々の姿が伝えられる。それでも敢(あ)えて筆者は、飢えた仲間に一片のパンを捧(ささ)げる人や、過酷な強制労働に耐えた後に、皆が夕日に感動する美しい心を描き、命の保証もない捕虜の中に輝いた、崇高な精神を強調している。
「どんなに悲惨な状況にあっても、あなたがどんな人間になるかは、あなた自身が決めることができる。」
この言葉から、人は苦悩への向き合い方次第で、理不尽や不運に翻弄(ほんろう)されるよりもむしろ、それを成長の踏み台に変えることができると、私は学んだ。
殺伐とした苦役や拷問の中で生死を分けた要因は、身体の強さにあらず、未来への希望の存続にあると、フランクルは説く。本書を世に出し人々に生きる力を与えるという使命感が、彼自身の生きる支えにもなった。解放後すぐさま家族を収容所で亡くした事実に直面した彼の深い悲しみは想像を絶する。それでも尚(なお)、人権を剝奪され極限に晒(さら)されても輝いた人間の魂を書き上げたのは、彼が犠牲者体験よりも、苦悩が自身の心を育んだ過程を伝え、悩みながら生きる人に声援を送るためだと、私は確信に至った。
戦争で九死に一生を得た人にとって、その体験を語ることがどれほど辛(つら)いかを、私はシベリア抑留から生還した曽祖父の姿に憶(おぼ)える。いつも豪快に笑っていた曽祖父が亡くなる直前、初めて私達姉妹に、極寒の異国で飢えて息絶えていった友への思いを、涙を流しながら語ってくれた。悲壮な経験を負う自分たちの分も、私達が幸せに生きられるように、との願いに胸を打たれた。このかけがえのない思い出と重ね合わせると、筆者が力を振り絞って本書を上梓(じょうし)した思いが伝わる。戦争や迫害に限らず、苦境に向き合う全ての人が、生きることに意味を見出(みいだ)せるように望む普遍的な励ましのメッセージが、強く心に響く。
私の今までの努力は、自己実現を達成し、「私の幸せ」を手に入れるためのものだった。しかし、フランクルの言葉との邂逅(かいこう)は、私が使命を追求し、誰かを幸せにするために尽力する生き方こそが心を満たすものだと気付かせてくれた。あまりにも深く難解な哲学や、高邁(こうまい)すぎて私のような未熟者には到達できそうもない筆者の精神性に何度もはね返されながら、それでも引き寄せられるようにこの本を読み返すのは、私がこの付箋だらけになった一冊に、心の支えを求めていることの証左なのかもしれない。悩んでも悩んでも、悩む自分の心を信頼する力を与えてくれるこの本を、私はこれから何度も開くだろう。
「早く受験から解放されて、楽になりたい。」と叫びたくなる時もあるが、喜びや嬉(うれ)しさと同じくらい、この苦しみの感情も大切にできるようになりたい。十四歳の夏の、得体の知れない不安や苛立(いらだ)ちを否定せず、敢然と悩み続けながら、自分の使命に向かって堂々と、私は生きていきたい。
「私たちがなすべきことは、生きる意味を問うことではなく、人生から問われていることに全力で応じることだ。」
フランクルが鼓舞してくれる。心の夜に光が射(さ)し、霧が晴れていく。たとえ成功の保証がなくても、それは人生の意味や尊厳を傷付けるものではない。それならば、妥協よりも挑戦を選ぼう。いつか私も、言葉の力で人に勇気を与えるという夢を叶(かな)えるために。私は胸を張って、苦悩に向き合い続けたい。
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●読んだ本「夜と霧 新版」(みすず書房)
ヴィクトール・E・フランクル・著 池田香代子・訳
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