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言葉は生きている。いや、生かすことができるんだ。万葉の言の葉が、そっとささやいた。万葉集なんて、遠い世界だと思っていた。そんな僕の心を著者は、またたく間に連れ出した。言の葉がきらりと生きている世界へ。
授業を受けているように進むこの本は、著者の思いが直接伝わってくる。僕は、「景色にも気持ちがある」なんて考えたこともなかった。美しい夕日を見て、きれいだなと感じたことはある。その景色に僕のどんな気持ちがあったのか、思い返してみた。陸上練習でタイムが縮んだ時は、嬉しい夕日。公園で時間ぎりぎりまで遊んだ時は、焦る夕日。母に怒られた時は、かりかりの夕日。祖父が亡くなった時の夕日は、はっきり覚えている。大きな夕日がにじんでいた。とっても悲しい夕日。夕日が悲しんでいるのではなく、心が悲しいから悲しい夕日になる。著者の言う通り、夕日にも僕の色々な気持ちがあった。でも、一つの疑問が浮かんだ。何の気持ちももたない夕日もあるのではないだろうか。僕は今まで、たくさんの夕日を見てきたと思う。何も感じない、何の気持ちもない夕日は、見ているようで見ていないのと同じだ。万葉集では、目や耳など五感で感じた景色を自分の心に照らして、歌を生み出している。つまり、『風景』を『情景』に変えているのだ。だから、千年経っても言葉は生き続け、人の心に働きかける。本を読んで、思い出したことがある。博物館で万葉集を見た時のこと。漢字だらけの万葉仮名は、現代訳がないと意味が分からなかった。でも、じーっと見ていると、ポンッと漢字たちが飛び出してくるように感じたのだ。何でそのように感じたのか、その時は分からなかった。でも、今なら分かる。きっと、言葉に宿った気持ちが、紙から飛び出してきたのだ。まさに、万葉のエネルギーだ。
けれども、本の中には何だかぼんやりして、言葉の心をつかみきれない歌もあった。せっかく生きた言葉なのに、残念に感じた。しかもそういう歌に限って、母が「わかるなあ、この気持ち」とか言うものだから、ちょっとくやしい。想像してみても、心のピントが合いそうで合わない。何とももどかしい。そんな時、著者の「それでもいいんだよ」の優しさが、僕を安心させてくれた。
「色んな体験をして、たくさんの気持ちを味わって、心の引き出しを増やさんとね。」
と母が言った。そうか、体験がないと言葉の心を深く受け止めることはできないのか。僕は何だかわくわくしてきた。今は分からない歌が、僕の心に突然飛び込んでくるかもしれない。今感じている歌が、違った景色を運んでくるかもしれない。いつの日か、生きた言葉を僕の心で生かすことができるはず。この本は、楽しみの続きを残してくれた。だから、『みらい塾』なんだ。万葉の言葉の命に向き合えた喜びを、僕も歌にしたくなった。
夕映えが 空のキャンバス ぬりかえる
思いをはせる 万葉の空
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●読んだ本「中西進の万葉みらい塾:はじめての『万葉集』」(朝日新聞出版)
中西進・著
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