『小さいおうち』『長いお別れ』など、著作が次々と映画化されている作家の中島京子さん。子どもの頃から本に囲まれ、書くことが大好きだったという。「本がある環境で育ててもらい、恵まれていました」と語る。【出水奈美、写真・根岸基弘】
中島さんの新作『夢見る帝国図書館』(文芸春秋)は、明治時代に日本で最初に作られた帝国図書館(東京・上野、現国立国会図書館国際子ども図書館)の歩みと、その図書館の歴史をたどる小説を書き始める女性、そして謎めいた年上の「喜和子さん」の人生が重層する長編小説。中島さんの本や図書館に対する愛がにじむ、優しい物語だ。
そんな中島さんの、本との出会いは団地の子ども文庫だった。小さい頃に暮らした埼玉県和光市の団地には、お母さんたちがこしらえた子ども文庫があり、土曜日の午後はそこで過ごすのがお気に入りだった。「リノリウムの冷たい床にぺたっと座り、本を引っ張り出しては選び、3冊くらい借りて翌週に返す。幼稚園から小学校低学年ごろまで通っていました。それは大事な時間で、大事な思い出です」と振り返る。
シャーロック・ホームズのシリーズ、野口英世やベーブ・ルースらの伝記もの、『ひとまねこざる』『きかんしゃやえもん』などカラフルな表紙がかわいい「岩波の子どもの本」……。シリーズものを読み進めるのが楽しくて、本棚の端から手に取って物語の世界に浸った。
両親はそろってフランス文学者で、書斎や廊下、家のいたるところに本があふれていた。晩ごはんの後、父は自らが翻訳したものを子どもたちに朗読することもあった。
「書いたり読んだりすることを両親が楽しそうにしていました。おこづかいは高くなかったけど、本はよく買ってくれました。(ドイツの作家)ケストナーや『ナルニア国物語』など。王道の児童文学を読みました」
自然と本に親しみ、文章を書く喜びも覚えていった。中学生になる頃には「書く人になりたい」と将来を夢に見て、ノートにこっそり小説を書き始める。しかし、これが父親に見つかってしまう。
「『勉強しないでこういうものを書いているから成績が悪いんだ』と言わんばかりの父に、私は『どうせ私の書くものは三文小説だと思っているでしょうけど……』と口答えをしたんです。そうしたら『売れて三文になるから三文小説と言うのであって、おまえが書き散らかしているものは一文にもならないどころか、紙の分だけ損だ!』と。うちでは大弾圧事件と呼んでいます」
以来、人目を忍び、小説を書き続けた。だが、高校生の頃に書いていた青春小説は、姉に見つかる。「プププと笑って読んでいて、『面白かったから、続きが書けたらまた見せて』と言うんです。盗み読みされたショックよりも、初めての読者を得た快感が大きかったのを覚えています」
とはいえ、道はすんなりとは開けない。大学卒業後、就職した日本語学校はつぶれ、フリーライターに転身。25歳で出版社の正社員になったものの、「自分のやりたいことじゃない人生になる」と腹をくくって32歳で会社を辞めた。
「私、昔はよく『お留守になる子』と言われていたんです。空想が肥大して、ぼーっと考えていることが多くて。でもそれでは仕事にならないから自分を抑圧していたんですね。それでぼんやり考える時間を作ろうと思って退職しました。人生の大きな決断でした」
数年をかけて田山花袋(かたい)の『蒲団(ふとん)』(1907年)を下敷きにした小説『FUTON』を書き上げ、ついに2003年に作家デビューを果たした。この時、39歳。
遅いデビューだったが、作品の評判は上々。その後も10年に『小さいおうち』で直木賞、14年『妻が椎茸(しいたけ)だったころ』で泉鏡花文学賞、15年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、柴田錬三郎賞など多くの賞にも恵まれた。
現在は午前9時ごろから仕事場に入り、お昼休憩の他は、夕食まで書く仕事にあてている。忙しい日々だが、夜は読書をして過ごすことが多いという。本をこよなく愛する中島さんに、本の選び方や感想文の書き方をアドバイスしてもらった。
「私は本屋さんでふらふらして本を見つけるのが好きです。表紙やタイトル、帯を見て琴線に触れたものを手に取ると、あまり外さないと思います。感想文は原稿用紙2枚半を書くとしたら、1枚の半分にあらすじをまとめて、残りに自分がどういうところが好きだったのか、どこに感動したのかを書きなさいと小学3、4年生の時の担任の先生に教わりました。これはとても良くて、お勧めですよ」
1964年東京都生まれ。2003年『FUTON』で小説家デビュー。10年『小さいおうち』で直木賞、15年『長いお別れ』で中央公論文芸賞を受賞。本紙日曜朝刊書評面「今週の本棚」で書評を担当している。